大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和60年(人)3号 決定

昭和六〇年(人)第二号事件・同第三号事件各請求者兼被拘束者

(以下「請求者」又は「被拘束者」という。)

平澤貞通

右代理人

遠藤誠

昭和六〇年(人)第二号事件・同第三号事件各請求者

(以下「請求者」という。)

遠藤誠

昭和六〇年(人)第二号事件拘束者法務大臣

(以下「拘束者法務大臣」という。)

嶋崎均

昭和六〇年(人)第二号事件拘束者検事総長

(以下「拘束者検事総長」という。)

江幡修三

昭和六〇年(人)第二号事件拘束者宮城刑務所長

(以下「拘束者宮城刑務所長」という。)

佐々木満

昭和六〇年(人)第二号事件拘束者仙台拘置支所長

(以下「拘束者仙台拘置支所長」という。)

高橋勉

昭和六〇年(人)第三号事件拘束者八王子医療刑務所長

(以下「拘束者八王子医療刑務所長」という。)

吉永亨

右五名指定代理人

大藤敏

外三名

拘束者法務大臣指定代理人

馬場俊行

外四名

主文

本件各請求をいずれも棄却する。

手続費用は請求者らの負担とする。

理由

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

被拘束者を釈放する。

手続費用は拘束者らの負担とする。

二  拘束者らの答弁

1  本案前の申立て(昭和六〇年(人)第二号事件について)

本件各請求をいずれも却下する。

手続費用は請求者らの負担とする。

2  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二  当事者の主張

一  請求の理由

1  拘束の事実の概要

(一) 拘束の日時、場所

被拘束者は、昭和二三年八月二一日から現在に至るまで身体の自由を拘束されている。拘束の場所は、当初仙台拘置支所であつたが、昭和六〇年四月二九日午前一一時五〇分から八王子医療刑務所において拘束され、現在に至つている。

(二) 拘束の事情

被拘束者はいわゆる帝銀事件の被告人として、昭和三〇年四月六日、最高裁判所において、上告棄却の判決言渡しを受け(最高裁昭和二六年(れ)第二五一八号強盗殺人等被告事件)、同人にたいする死刑の言渡しは、昭和三〇年五月七日、確定した(刑事訴訟法(昭和二三年法律第一三一号、以下「刑訴法」という。)四一八条)。

被拘束者は、右死刑確定囚として、前記拘束の場所において拘置されているものである。

2  拘束者

(一) 八王子医療刑務所長

右拘束者は、現に被拘束者が拘束されている施設の管理者である。

(二) 仙台拘置支所長

右拘束者は、前述したとおり、昭和六〇年四月二九日まで被拘束者を拘束していた施設の管理者である。被拘束者は、現に八王子医療刑務所で拘束されているけれども、将来再び仙台拘置支所に移送される可能性があるから、右施設の管理者である仙台拘置支所長を拘束者とする必要がある。

(三) 拘束者法務大臣、同検事総長及び同宮城刑務所長

右三名も、人身保護法(昭和二三年法律第一九九号、以下「法」という。)及び人身保護規則(昭和二三年最高裁判所規則第二二号、以下「規則」という。)所定の拘束者に当たる。すなわち、右法令にいう拘束者とは、被拘束者の身柄を裁判所に提出する権限、権力をもつている者をいうところ、監獄法(明治四一年法律第二八号)六三条、監獄法施行規則(明治四一年司法省令第一八号)一六条一項、二項、刑訴法四七九条、四八〇条、四八一条一項、四八二条の諸規定及び拘束者らにおいて後記のとおり自認するように、法務大臣及び宮城刑務所長が仙台拘置支所長に、法務大臣が八王子医療刑務所長に対し、それぞれ一般的な指揮監督権を有していることからすれば、仙台拘置支所長ないし八王子医療刑務所長が被拘束者を釈放するには、常に、「職権アル者ノ命令」や、「法務大臣の命令」や、「検察官の指揮」がなければできず、したがつて、仮に裁判所が釈放の判決を言い渡しても、その判決の相手方が仙台拘置支所長ないし八王子医療刑務所長のみでは、右の者に対し、実行不能の判決を言い渡すことにもなる。

したがつて、本件請求においては、仙台拘置支所長ないし八王子医療刑務所長のほかに、法務大臣、検事総長及び宮城刑務所長を共同拘束者とせざるを得ず、右の者らが重畳的かつ競合して拘束者の地位にあるというべきものである。

なお、現在においても宮城刑務所長をも拘束者とする必要性については、仙台拘置支所長について述べたところと同様である。

3  拘束が法律上正当な手続によらない理由

(一) 被拘束者に対し、前記死刑の言渡しの確定の後、現在まで死刑の執行がされないまま、昭和六〇年五月六日が経過したことにより、刑の言渡しが確定してから満三〇年の期間が経過したものである。

(二) ところで、刑法(明治四〇年法律第四五号)三二条には、「時効ハ刑ノ言渡確定シタル後死刑ハ三〇年ノ期間内其執行ヲ受ケサルニ因リ完成ス」と規定されているところ、右(一)の事実によれば、右規定の適用によつて、被拘束者に対する死刑の時効は、昭和六〇年五月六日の経過をもつて完成し、被拘束者は、右時効完成により、死刑の執行の免除を得(同法三一条)たものであるから、以後被拘束者に対する拘置を継続できる法律上の根拠は全くなくなつたため、被拘束者は、直ちに釈放されるべきものである。

被拘束者は、確定死刑囚として同法一一条二項によつて拘置されてきたものであるが、このような場合にも、同法三二条の時効の規定が適用され、時効が完成したものと解すべきであり、その理由について以下に述べる。

(三)(1) 刑法三二条の文理解釈

同法三二条には、「其執行」とあるところ、法令用語で「其」と言うときは、その前に出てくる名詞を受けていることは常識である。

そしてその前に出て来る語は、「刑ノ言渡確定シタル後左ノ期間内」という語である。そして、「左ノ」というのが本件では「死刑ハ三十年」という語である以上、本文に言う「刑ノ言渡確定シタル後」というのが、本件の場合「死刑ノ言渡確定シタル後」ということであることも、明らかである。

そうすると、これを「其執行」に当てはめた場合、死刑ノ言渡確定シタルノ執行」という日本語はなく、また、「死刑ノ言渡ノ執行」という日本語もない(「言渡シタル死刑ノ執行」という日本語はあるが)。

そうすると、「其執行」とは、「死刑ノ執行」のことになる。

すなわち、同法三二条一号が言つていることは、「三十年ノ期間内死刑ノ執行ヲ受ケサルニ因リ完成ス」ということなのであつて、それ以外のいかなる意味でもない。

そして同法一一条一項、二項の規定からすると、「死刑の執行」とはあくまで「絞首」そのものを意味し、同条二項に規定の「拘置」は、明らかに死刑の執行の概念には入らないものである。

したがつて、被拘束者のように、「絞首」されることなく、拘置のみが継続されていた者に対しても、同法三二条の時効の適用があるものと解すべきである。

(2) 時効制度の趣旨からの考察

もともと、刑の時効制度が定められた所以のものは、(ア)判決の確定後、三〇年もたてば、被害感情も和らぎ、(イ)犯人の処罰を求める社会の感情も和らぎ、(ウ)かつまた、三〇年という時の経過によつて作り上げられてきた社会的安定性、すなわち執行されないことが自然であるとする社会的安定性が形成されている以上、(エ)国家刑罰権は、むしろその消滅を来すという趣旨にある。

しかして本件は、まさにその趣旨に適合する事例である。すなわち、(ア)被害者たちは、今や全く被拘束者の処罰を望んでいないのみか、真犯人を目撃した被害者の一人竹内正子さん(旧姓村田さん)は、「犯人は平澤さんではない。」と言つて、現在係属中の、再審請求事件(東京高裁第一刑事部昭和五六年(お)第一号再審請求事件)の弁護側証人として、出廷することを望んでいる。(イ)さらにまた、被拘束者の処罰を求める社会の感情は、和らいだどころか、「被拘束者を救え。」という世論は、日本国内のみならず、国際的にも、年々高まつて来ていることは、周知のことである。

(ウ)さらにまた、ここで法務当局が、被拘束者に対する死刑執行を断行したとすれば、日本はもちろん、世界中が蜂の巣をつつついたような大騒ぎになることは必至であり、逆に言えば、被拘束者に対して、今後とも死刑執行をしないことが、今や、社会的安定性を得てしまつたということになる。

(3) 逃亡者との均衡

刑の確定後逃亡した者に対して刑の時効が成立することは異論がないところ、右逃亡者と比較して、被拘束者には、連日、死の恐怖があり、行動の自由を束縛されていたのであつて、逃亡者が三〇年で時効の恩恵を享受できるのに比べ、本件をもつて、刑の時効が完成していないと見るのは、明らかに不公平である。

(4) 残虐刑の禁止との関係

拘束者らが主張するように、刑法一一条二項の拘置がなされている限り、刑の時効の適用がないと解釈すると、本件において、昭和六〇年五月七日以後においても、被拘束者に対する死刑の執行をすることができるということになる。

しかしながら、三〇年もの間、「今日は殺されるかもしれない。今日は殺されるかもしれない。」という死の恐怖にさいなまれながら牢獄に閉じ込められ、そして三〇年たつてから本当に殺すという刑は、憲法三六条にいう「残虐な刑罰」に当たるものである。

最判昭和二三・六・三〇刑集二巻七号七七七頁によると「残虐な刑罰とは、不必要な精神的・肉体的苦痛を内容とする人道上残酷とみとめられる刑罰のことをいう」とされるのであるが、右のような刑の執行は、まさに、これに当てはまるものである。したがつて、このような刑の執行を是認する先の解釈は到底採り得ない。

(5) 死刑判決の内容と罪刑法定主義

また、死刑の時効が完成しないという拘束者らの解釈によると、被拘束者に対しては、死の恐怖の下の禁錮三〇年のほかに、死刑の執行をすることが可能になる。

しかし、昭和三〇年五月七日の確定判決は、あくまで死刑のみの判決であつて、プラス禁錮三〇年などは、その主文のどこにも書いていないのであるから、判決が命じている刑以上の刑の執行が可能となるような解釈は、到底採り得ないものである。

(6) 刑の時効の停止との関係

「時効ハ法令ニ依リ執行ヲ……停止シタル期間内ハ進行セス」という刑法三三条の反対解釈からすれば、「時効は事実上執行をしなかつた期間内は進行する」ことになるのである。

本件では、法令によつて死刑の執行が停止されたことは全くなく、単に事実上死刑の執行がなされなかつたに過ぎないのであるから、時効は、同条により停止されることなく進行し、完成したものである。

ちなみに、被拘束者は、後記拘束者らの主張のとおり、死刑の確定裁判に対し再審の請求及び恩赦の出願をしているが、旧刑事訴訟法(大正一一年法律第七五号、以下「旧刑訴法」という。)四九六条本文によれば、「再審ノ請求ハ刑ノ執行ヲ停止スル効力ヲ有セス」と規定されており、また現行刑訴法四四二条本文でも、「再審の請求は、刑の執行を停止する効力を有しない。」と規定されている。

また、本件につき最初から適用されている憲法七三条七号及び現行恩赦法(昭和二二年法律第二〇号)一二条、恩赦法施行規則(昭和二二年司法省令第七八号)一条、一条の二第二項によれば、恩赦は、本人からの出願の有無に拘らず、監獄の長からの上申に基づく中央更生保護審査会の申出に基づき、内閣が決定するとされている。したがつて、本人からの恩赦出願は、監獄の長の単なる職権発動を促すだけのものにすぎず、ましていわんや、刑の執行を停止する効力など有しているはずがないものである。

(7) 刑の時効の中断との関係

刑法三四条一項によれば、「時効ハ刑ノ執行ニ付キ犯人ヲ逮捕シタルニ因リテ中断ス」と規定されているところ、同条項にいう「逮捕」とは、通説によれば、「収監状(刑訴法四八五条ないし四八九条)の執行により身体を拘束すること及び呼出に応じて任意に出頭した者を検察官の執行指揮により収監することをいう」と解されている。

ところが被拘束者に対しては、いまだかつて、刑訴法四八五条ないし四八九条による収監状も発付されてなければ、また、被拘束者の現在の身柄拘束は、呼出に応じて任意に出頭したのに対し、検察官の執行指揮により収監されたというようなものでもない。

したがつて、被拘束者に対する刑の時効は、昭和三〇年五月七日以来、三〇年間、中断することなく、ずつと進行し続けたことになる。

もつとも、現在、被拘束者がその身柄を拘束されているのは、刑法一一条二項の規定に基づくものであるが、しかし、同法三四条一項に「第十一条第二項ニ依リ拘置セラレタルトキ亦同シ」という明文の規定がない以上、同法三四条一項の「刑ノ執行ニ付キ犯人ヲ逮捕」という言葉を拡張解釈して、「刑の時効についての逮捕のなかには、同法一一条二項の拘置を含む」と解釈することは、憲法三一条が高らかに保障している罪刑法定主義の一内容たる刑法に対する拡張解釈の厳しい禁止の原則からしても、不可能なことである。

言いかえるならば、刑法三四条一項の中断の規定は、死刑確定囚が刑務所から逃亡した場合を前提として規定されているものであつて、本件のように、起訴前から身柄の拘束が継続している場合には適用されず、したがつて、本件につき、同条項の規定をもつて、刑の時効が中断しているという解釈は、到底採り得ないものである。

(8) 刑法三二条の文理解釈についての拘束者らの見解に対する反論(ア)拘束者らは、後記のとおり、刑法一一条二項にいう「其執行」は死刑の執行そのものと解すべきだが、同法三二条の「其執行」は、刑を言い渡した確定裁判の執行を指し、死刑については、確定裁判の執行としては、死刑の執行そのものの他に、同法一一条二項の拘置が含まれる旨主張する。

(イ)ところで、同一法典中の諸規定、その中でも特に同一関係事項(今の場合、刑法典中の刑に関する事項)についての諸規定における同一の語法は、文理解釈上の鉄則として、特別の事情のない限り、すべて同一の意味を表わすものと解釈すべきである(すなわち、統一的解釈の原則)。

そして、右にいう「特別の事情」とは、統一的解釈が論理上不可能または実質上不合理である場合を言う。

そうでない限り、すなわち統一的解釈が可能かつ合理的であるのに、わざわざ不統一な解釈を施すことは、特にそれが受刑者に不利である場合には、刑事人権保障の要請に基づく刑法の厳格解釈の要請上、絶対に許されない。

そして刑法典の刑に関する諸条項中、刑法一一条二項、二五条一項、三一条、三二条、三四条の二にそれぞれ規定されている「其執行」は、いずれも死刑そのものの執行のみを指し、拘置を含まないものと解すれば、すべて無理なく意味が通り、かついかなる不合理も生じないのにたいし、拘束者ら主張のように「刑を言い渡した確定裁判の執行」の全体を指し、その中に「拘置」が含まれると解そうとすれば、同法三一条、三二条においては、時効適用の点で受刑者に不利となり、かつ同法一一条二項においては意味不明となる。

全条統一的で、受刑者に有利な解釈が可能かつ合理的であるのに、かようにわざわざ不統一で、しかも受刑者に不利な解釈を採ることは、先の統一的解釈の原則上許されず、また、同法三二条の「其執行」のみを「死刑の執行プラス拘置の執行」と解釈するのは、類推解釈ないし拡張解釈として許されない。

(ウ)さらにもし、拘束者の言うように、この「死刑ノ執行ヲ受ケサルニ因リ」を「死刑を言い渡した確定裁判の執行を受けざるに因り」と拡張解釈した場合、たとえば、確定死刑囚が逃げまわつている場合においても、(a)「死刑と訴訟費用被告人負担」の確定裁判により、訴訟費用取立の執行だけをすれば、三〇年たつても死刑は時効にかからないことになり、(b)「死刑と没収刑」の確定裁判により、没収刑の執行だけをすれば、同じく三〇年たつても死刑は時効にかからないことになり、(c)「死刑と追徴刑(同法一九条ノニ)」の確定裁判により、追徴刑の執行だけをすれば、同じく三〇年たつても死刑は時効にかからないことになり、(d)「死刑と罰金刑」の確定裁判により、罰金刑の執行だけをすれば、同じく三〇年たつても死刑は時効にかからなくなり、(e)「死刑と科料刑」の確定裁判により、科料刑の執行だけをすれば、同じく三〇年たつても死刑は時効にかからないということになつてしまう。

これらの結論は明らかに不合理である。

(エ)そもそも、拘置とは、「死刑を言い渡した裁判そのものの執行」ではなしに、刑法一一条二項によつてはじめてなされる、一種独特の身柄拘束なのであり、決して裁判そのものの執行ではないものである。このことは、死刑判決の主文に「被告人を拘置する」と書かれないことからもうかがわれることであり、死刑を言い渡した確定裁判は、被告人を死刑に処することを定めたものであつて、「死刑ノ執行ニ至ルマテ之ヲ監獄ニ拘置ス」ることまで定めたものではない。監獄への拘置は、死刑の執行に至るまでの、同法一一条二項により定められた、その言渡しを受けた者に対する処遇である。

したがつて、仮に同法三二条の「其執行」が「確定裁判の執行」だとしても、これはあくまでも死刑の執行のみを指すものである。

(9) 拘束者らの見解に対する刑法三三条の解釈からの反論

拘束者らは、後記のとおり確定裁判の執行として拘置がなされている以上、時効はそもそも進行していないものであつて、同法三三条の時効の停止制度は、このような場合には適用がない旨主張する。

しかし、死刑囚の身柄については、逃亡している場合と拘置されている場合の二つしかない。

そして逃亡している場合には、執行停止をすることはいつさい許されていない。通説によると、刑の言渡しを受けた者の逃亡又は所在不明の理由をもつて刑訴法四八二条八号により刑の執行の停止をすることは許されないとされ、それは、これを許せば時効制度は無意味に帰するからであるとされる。また、逃走中の確定死刑囚にたいし、心神喪失(刑訴法四七九条一項)や懐胎(同条二項)を理由に、法務大臣が死刑執行停止の命令を下すことはあり得ない(だいいち、そんなことが分かるはずがない)。そして、それ以外に、逃走中の死刑囚にたいし、「法令ニ依リ」死刑の執行停止をすることは、現行法上、あり得ない。

一方、拘置されている場合をみてみると、例えば、法務大臣が同法四七九条一項により、心神喪失の状態にある死刑囚に対し、死刑の執行停止命令を下したとする。しかし、死刑の執行は停止されても、その場合には同法四八一条のような規定がないから、身柄はなお拘置されることになる。拘束者らの見解によると、この場合にも、そもそも時効が進行していないのであるから、刑法三三条の適用はないこととなる。

しかし、刑訴法四七九条によつて死刑の執行が停止されれば、それは「法令ニ依ル停止」であるから、刑法三三条により、当然に時効は停止されると解されている。

法務省は、刑法三三条の停止の例として、すべての教科書において、死刑囚に関する刑訴法四七九条を冒頭に挙げている現在の法学者一〇〇%の通説に異をとなえるのであろうか(すべての六法全書にも、刑法三三条の例として、刑訴法四七九条が挙げられている)。

また、拘束者らの見解によると、以上から明らかなように、逃亡した死刑囚及び拘置されている死刑囚のいずれに対しても、およそ刑法三三条によつて時効が停止する場合は、全くなくなつてしまうのである。

(四) 以上によれば、昭科六〇年五月六日の経過によつて、被拘束者に対し、死刑の時効が完成したことは明らかであり、同人は死刑の執行の免除を得たのであるから、拘束者らは、死刑の執行を前提として拘置を継続すべき権限を喪失したのであつて、被拘束者の拘束が現にその権限なしになされていることが顕著である。

よつて、被拘束者を釈放せよとの判決を求める。

二拘束者らの主張

1本案前の申立てについて

拘束者法務大臣、同検事総長、同宮城刑務所長及び同仙台拘置支所長は、いずれも、法及び規則にいう拘束者に当たらない。

すなわち、規則三条後段は、「拘束者とは、拘束が官公署、病院等の施設において行われている場合には、その施設の管理者をいい、その他の場合には、現実に拘束を行つている者をいう。」と規定している。ところで、人身保護制度は、現に、不当に奪われている人身の自由を、迅速、かつ、容易に回復せしめることを目的としていることから、法及び規則は、裁判所に対し迅速裁判の義務を課するとともに、人身保護請求の主体については、制度の趣旨に従つてこれを限定することなく、何人も被拘束者のために請求することができるものと定めており(法二条二項)、このことからすると、拘束者の意義についても、以上の各規定の趣旨並びに規則三条前段が拘束とは身体の自由を奪い、又はこれを制限する行為をいうものであると規定していること及び同条後段の文言に照らすと、被拘束者の自由を直接、かつ現実に支配している者をいうと解すべきであり、このように解して初めて人身保護制度の前記目的に合致するといわなければならないのである。したがつて、規則三条にいう「施設の管理者」とは、当該拘束が行われている施設について直接、かつ具体的な管理権を有する者をいうと解するのが相当であり、右管理権者に対し一般的な指揮監督権を有するに過ぎない者は、同条にいう管理者には当たらないというべきである。

これを本件についてみるに、被拘束者は、昭和六〇年四月二九日までは仙台拘置支所に、同日以降は八王子医療刑務所に拘束されているものであるところ、拘束者検事総長は、拘束者仙台拘置支所長ないし同八王子医療刑務所長に対する一般的指揮監督権すら有するものではなく、また、拘束者法務大臣は拘束者仙台拘置支所長ないし同八王子医療刑務所長に対し、拘束者宮城刑務所長は拘束者仙台拘置支所長に対し、それぞれ、一般的指揮監督権は有するにしても、右仙台拘置支所ないし八王子医療刑務所の事務を掌理することはないから、同拘束者らが、右拘置支所ないし医療刑務所に対し、直接、かつ具体的な管理権を有するものでないことはいうまでもない(刑務所、少年刑務所及び拘置所組織規程(昭和二四年法務府令第四号)二条一項、二項、七条一項ないし三項参照)。

よって、拘束者法務大臣、同検事総長が法及び規則所定の拘束者に当たらないことは明らかであるところ、法五条は、人身保護請求には、拘束の事実、知れている拘束者及び知れている拘束の場所等を明らかにし、かつ、右事項について疎明資料を提供しなければならない旨規定し、さらに、法七条は、裁判所は、請求がその要件又は必要な疎明を欠いているときは、決定をもつてこれを却下することができる旨規定しているところである(規則七条、八条参照)。したがつて、同拘束者らにつき法五条所定の前記拘束に関する事項を疎明することはおよそ不可能であり、かつ、その欠缺を補正する余地もないのであるから、右拘束者らに対する本件各請求は、法七条により不適法としていずれも却下されるべきである。

また、宮城刑務所長については、法及び規則所定の拘束者に当たらないこと前述のとおりであるから、同様に不適法として却下されるべきである。

被拘束者は、昭和六〇年四月二九日仙台拘置支所から八王子医療刑務所に移送され、現に同刑務所に拘置されているものであり、右事実は請求者らにおいてもこれを自認していることは一件記録上明白である。してみると、請求者らは、拘束者宮城刑務所長及び同仙台拘置支所長が法及び規則所定の拘束者でないことを自認しながら、なお、同拘束者らに対する本件各請求をしていることに帰するから、右各請求は全く無用かつ無意味な請求であつて、人身保護請求の利益を欠くことは明白というべきである。したがつて、右拘束者らに対する本件各請求は、不適法としていずれも却下されるべきである。

2請求の理由に対する答弁及び拘束者らの主張

(一) 請求の理由に対する答弁

(1) 請求の理由1(一)及び(二)の事実は認める。

(2) 同2(一)の事実及び(二)の事実のうち拘束者仙台拘置支所長が昭和六〇年四月二九日まで被拘束者を拘束していた施設の管理者であることは認めるが、(二)のその余の主張は争う。

同2(三)の事実のうち、法務大臣及び宮城刑務所長が仙台拘置支所長に対し、法務大臣が八王子医療刑務所長に対し、それぞれ、一般的な指揮監督権を有することは認めるが、その余の主張は争う。

(3) 同3の主張のうち、(一)の事実は認めるが、その余の主張は争う。

(二) 拘束者らの主張

(1) 拘束の事実(被拘束者の裁判・身柄拘束の経過等)

被拘束者は、昭和二三年八月二一日、いわゆる帝銀事件に関する強盗殺人事件で警視庁により逮捕され、勾留の後、同年九月三日釈放の上別件私文書偽造、同行使、詐欺、同未遂事件で東京地方裁判所に起訴され、引き続き同事件により勾留され、さらに同年一〇月一二日、右帝銀事件にかかる強盗殺人のほか強盗殺人未遂、強盗予備、殺人予備事件で同裁判所に起訴され、同月二一日、同事件により勾留された。その後、勾留中のまま右各被告事件について、同二五年七月二四日、同裁判所において死刑の裁判を、同二六年九月二九日、東京高等裁判所において死刑の裁判を各受け、同三〇年四月六日、最高裁判所において上告棄却の裁判を受けたものであり、右死刑を言い渡した東京高等裁判所の裁判は、右上告棄却の裁判に対する判決訂正申立ての棄却決定を経て同年五月七日確定し、同人は、右死刑の確定裁判の執行として同三七年一月二四日まで東京拘置所に、同五一年五月九日までは宮城刑務所(拘置場)に拘置され、同月一〇日、同拘置場が仙台拘置支所となつたのに伴い、同支所に拘置され、昭和六〇年四月二九日から八王子医療刑務所に拘置され現在に至つているものである。

(2) 拘束者法務大臣、同検事総長及び同宮城刑務所長の被申立適格に関する主張

拘束者法務大臣、同検事総長及び同宮城刑務所長は、いずれも法及び規則所定の拘束者に当たらないことは、前述したとおりである。

(3) 拘束者仙台拘置支所長の被申立適格に関する主張

(1)に記載のとおり、被拘束者は、現在八王子医療刑務所に拘置されているものである。

したがつて、前述のとおり右拘束者に対する請求は全く無用かつ無意味な請求であるから、右拘束者に対する本件請求は、法一一条により、これを棄却すべきである。

(4) 拘束が法律上正当な手続に基づいていることについて

(ア)(1)に記載のとおり、被拘束者は、昭和三〇年五月七日以来、死刑を言い渡した確定裁判の執行として拘置されてきたものであつて、このような場合には刑法三二条の時効の適用はないものである。以下その理由を述べる。

(イ)(a)時効制度の趣旨からの考察

刑の時効は、刑を言い渡した裁判の確定により具体化された国家の刑罰権が一定期間行使されない場合に、その行使を許さないとする制度である。

ところで、死刑の確定裁判を受けた者に対する刑法一一条二項の拘置は、当該確定裁判に基づく身体の拘束であり、死刑を言い渡した確定裁判の執行の内容には、死刑の執行である絞首のみならず、右の拘置が含まれるものであつて、拘置が行われている以上、死刑の確定裁判の執行が行われているものにほかならない。しかして、右拘置は、前述のとおり、死刑の確定裁判に基づいて行われるものであるから、それ自体国家の刑罰権の発現であり、したがつて、拘置が行われている以上、その状態は、死刑を言い渡した裁判の確定により具体化された国家の刑罰権自体が現に行使されている状態にほかならず、国家の刑罰権の不行使を要件とする刑の時効制度との関係においては、自由刑の裁判につき当該刑の執行が行われている間は時効の進行の問題が生じないとされるのと全く同じ状態である。この意味において、拘置が行われている以上、刑の時効の進行を論じる余地はない。

刑法三二条は、自由刑の執行がなされている場合を含め、およそ確定裁判により具体化された国家の刑罰権の行使がなされている場合には、そもそも適用がないものであり、同条にいう「其執行ヲ受ケサルニ因リ」とは、「刑を言い渡した確定裁判の執行を受けないことにより」と解すべきである。

なお、請求者らは、単に絞首がなされないという一事のみをもつて時効が完成するというが、これは、既に確定裁判の執行として拘置がなされている事実を無視するものであつて、明らかに失当である。

請求者らは、三〇年の経過により本件被拘束者について死刑の執行がなされないことが自然であるとの社会的安定性が形成され、その執行をなすことは社会に混乱をもたらすものであるので、時効制度の立法趣旨からみても、時効が完成すると解すべきである旨主張する。

しかしながら、刑の時効制度が設けられた趣旨は、国家の刑罰権が行使されないまま一定の期間が経過することによつて、通常、社会において一定の事実上の秩序が形成され、右期間経過後においてなお国家が刑罰権を行使して右の秩序を破壊することはかえつて国家社会の利益に反する結果になることから、むしろこれを尊重し国家の刑罰権の行使を許さないとすることにある。

ところで、本件の場合においては、被拘束者は、拘置されることによつて、一貫して死刑の執行を受けるべき者として取り扱われてきたのであつて、拘置がなされている間に同人をめぐつて形成されてきた種々の社会的関係は、いずれも同人が死刑の執行を受けるべき者であることを当然の前提としているものであり、同人につき、死刑を執行したとしても何ら社会の秩序を乱すこととなるものではなく、かえつて、時効の成立を認めた場合にこそ、現に同人につき死刑を執行することを前提として拘置が行われることにより国家の刑罰権が行使されているという状態を覆し、その状態の上に形成された秩序を乱す結果となるものといわなければならない。

したがつて、請求者らの主張するような社会的安定性が形成されるいわれはなく、また、死刑の執行をなすことが社会に混乱をもたらすものでないことも明白である。

(b)刑法三二条の文理解釈

請求者らは、刑法三二条にいう「其執行」は、「死刑を言い渡した確定裁判の執行」とは解し得ず、「死刑の執行」と解すべきものである旨主張するが、右の請求者らの主張は、次の理由により失当である。

請求者らは、刑法三二条の「刑ノ言渡確定シタル後……其執行ヲ受ケサルニ因リ……」の文言について、「刑ノ言渡」の執行ということは考えられないので、文理上、「其執行」とは「刑の執行」と解するほかはなく、また、拘束者らが、これを「刑を言い渡した確定裁判の執行」と解することは類推解釈ないし拡張解釈であつて許されない旨主張する。

しかしながら、同条の「刑ノ言渡」が「刑を言い渡した裁判」を指称するものであることは、①同条において「刑ノ言渡確定シタル後」と規定されているところ、本来、確定するとは裁判についていうものであること、②現行刑法の立案者も、同条の「言渡」とは裁判と同義であるとしながらも、「刑ノ裁判」という用語の使用例がないことから「刑ノ言渡」という表現を採用したに過ぎないと認められること、③同法の他の条文においても、「言渡」が単なる裁判宣告の動作又は行為を表わすものでなく、言い渡された裁判の意義で用いられていると認められる例が多いこと(例えば、刑法二六条の「刑ノ執行猶予ノ言渡ノ取消」、二七条の「刑ノ言渡ハ其効力ヲ失フ」、三四条ノ二第二項の「其言渡確定」等における「言渡」)等からして明らかである。

したがつて、同条の「其執行」を「刑を言い渡した確定裁判の執行」と解することは文理上何ら不合理でないばかりか、「刑ノ言渡」が一個の名詞句をなすものであることからみると、文脈等から別異に解すべき理由のない限り、「其執行」の「其」は右名詞句そのものを受けているものと解するのが素直であり、それが立案者の意図にも合致するものと認められる。

ちなみに、刑法一一条二項にいう「其執行」が死刑の執行そのものと解すべきであることは請求者らの主張のとおりであるが、それは、同条がその一項において死刑の執行方法を定めた上、同条二項がこれを受けてその執行が行われるまでの措置として死刑確定者を監獄内に拘置することを定めたという同条の構成と同条各項の趣旨、目的によるものであつて、同条において「其執行」を右のように解すべきであるからといつて、同法三二条においても必ず同一に解釈しなければならないものではない。

そして、同法三二条の「其執行」を前記のように解釈することが時効制度の趣旨からして実質的にも正当であることは、右(a)に記載のとおりである。

また、右の解釈は、いわゆる文理解釈そのものであつて、請求者らの主張するような類推解釈でも拡張解釈でもないことは明白である。

次に、請求者らは、同条における「其執行」を「死刑を言い渡した確定裁判の執行」と解することができない理由として、仮にそのように解するとすれば、死刑の確定裁判において、訴訟費用の負担の言渡しや没収等の併科の言渡しがあつた場合には、その執行が行われることによつて死刑の時効が完成しないという不当な結果が生ずることとなる旨主張する。

しかしながら、刑法一一条二項の拘置が死刑を言い渡した裁判そのものの執行として行われるのに対し、訴訟費用の負担の裁判の執行や死刑に併科された没収等の裁判の執行は、これらの裁判が、たとえ死刑の言渡しと同時になされたとしても、死刑の裁判とは別個の裁判であるから、死刑の裁判の執行ではないことは当然であつて、訴訟費用の徴収や没収等の執行が行われたからといつて、そのことが死刑の時効の進行に影響を及ぼすものでないことは明白である。

したがつて、請求者らの主張するような不当な結果を生ずるものではない。

(c)逃亡者との均衡

請求者らは、本件の場合に時効の完成を認めなければ逃亡している者との間に不平等を生ずるというが、現に刑罰の行使を受けている者とそうでない者との間において、法的な取扱いに差があることは当然である。

すなわち、刑の時効制度が設けられた趣旨は、国家の刑罰権が行使されないまま一定の期間が経過することによつて、通常、社会において一定の事実上の秩序が形成され、右期間経過後においてなお国家が刑罰権を行使して右の秩序を破壊することは、かえつて国家社会の利益に反する結果になることから、むしろこれを尊重し国家の刑罰権の行使を許さないとすることにあるところ、本件被拘束者は、死刑の確定裁判の執行として拘置されることによつて、現に国家の刑罰権の行使を受け、一貫して死刑の執行を受けるべき者として取り扱われてきたのであつて、拘置がなされている間に同人をめぐつて形成されてきた種々の社会的関係は、いずれも同人が死刑の執行を受けるべき者であることを当然の前提としているものであり、このように現に死刑の確定裁判の執行として拘置を受けている者とそうでない者とではその法的地位を異にし、したがつて、また、これをめぐつて形成される社会的関係が異なるものであることも明白であつて、前述の刑の時効制度の趣旨、目的に照らせば、同制度の適用上差の生ずることはけだし当然のことであり、何ら異とするに足らず、両者を同一視することこそ時効制度の本質に反する議論といわなければならない。

(d)残虐刑の禁止との関係

請求者らは、被拘束者について時効が完成するとする論拠の一として、仮に時効が完成しないとすれば、被拘束者を三〇年間にわたり死の恐怖の下に拘置した上で死刑を執行することとなる点において残虐な刑罰を禁止した憲法三六条に違反することとなり、また、死刑に加えて三〇年の禁錮刑を科す結果となる点において罪刑法定主義に反することとなり、不当である旨主張する。

右主張は、結局、国家は死刑の裁判が確定した者については速やかに死刑を執行すべきであるとする主張につながるものというべきところ、死刑の裁判が確定すれば、これを尊重する見地から合理的な期間内に死刑の執行をなすべきことはもとよりであるものの、死刑が人の最も基本的な利益である生命を奪う刑罰であることにかんがみれば、その執行を行うに当たつては、特に慎重を期する必要があることはいうまでもないことであつて、このことが、また、法の要請であることは、旧刑訴法が死刑の執行命令を発すべき期間について特段の規定を設けることなく、同命令の発出の時期を司法大臣の裁量に委ねていたことや、現行刑訴法が訓示規定として法務大臣の死刑の執行命令は裁判確定後六か月以内になすべき旨を定めながらも、再審請求等の手続の行われている期間は右六か月の期間に算入しないこととしていることからもうかがえるところである。したがつて、死刑の執行の決定に慎重を期された結果、拘置が長期にわたつて行われることになつたとしても、それは生命を最大限尊重することに伴うやむを得ない結果であつて、何ら不当のそしりを受けるべきものではない。

これを本件についてみると、本件被拘束者に関しては、死刑の確定裁判に対し、別紙①再審請求状況調記載のとおり、被拘束者から、昭和三〇年六月二二日の第一次再審請求以来同五六年一月二〇日の請求に至るまでの間、実に一七回にわたつて再審請求がなされ、現在係属中の第一七次の再審請求を除き、すべて棄却されている。また、これら再審請求と併行し、別紙②恩赦出願状況調記載のとおり、同三七年一二月六日の第一回出願以来同六〇年二月一四日の出願に至るまでの間、五回にわたつて、被拘束者から恩赦の出願がなされ、現在審査中の第四次及び第五次出願を除き、いずれも不相当の議決がなされている。

なお、刑訴法四七五条二項は、法務大臣の死刑執行命令は、死刑判決確定後再審の請求及び恩赦の出願等の手続が行われている期間を除き、六か月以内にこれをしなければならないと定めているところ、被拘束者については、同条の規定の適用はないものの、別紙③再審請求及び恩赦出願期間調記載のとおり、前記のような多数回にわたる再審請求及び恩赦出願の結果、その手続の行われている期間を除く右死刑判決確定後の経過期間はわずかに八二日間にすぎない。このように、多数回にわたる再審の請求及び恩赦の出願が行われ、裁判所及び中央更生保護審査会において慎重な審議が行われて来たところであり、法務大臣において、これらの事情をも考慮して、人道的立場から死刑の執行を今日まで差し控えて来たに過ぎないものであつて、このような経緯にかんがみるときは、本件被拘束者が裁判確定後三〇年間拘置されてきたからといつて、そのことによって、同人に不必要な精神的、肉体的苦痛を内容とする人道上残酷と認められる刑罰(最判昭和二三年六月三〇日刑集二巻七号七七七頁)を科することとなるものとは到底いえず、また、死刑のほかに三〇年の禁錮刑を科したこととなるものでもないことはいうまでもない。

(e)刑の時効の停止との関係

また、請求者らは、時効が完成すると解すべき理由の一として、拘置が刑法三三条の時効進行の停止事由として規定されていない旨主張するが、同条は、確定裁判の執行が法令により正当に猶予され、又は停止されたときには、裁判の執行がなされなくても、時効が進行するものではないという当然の事理を明らかにしたに止まり、確定裁判の執行がなされない場合に関する規定であつて、刑法が確定裁判の執行としての拘置になんら触れるところがないのは、前述したところからむしろ当然である。

(f)刑の時効の中断との関係

なお請求者らは、本件について、刑法三四条一項により時効が中断されるかどうかを論じ、同条は逃亡中の死刑確定者が逮捕された場合に関する規定である上、その逮捕には同法一一条二項の拘置は含まれないので、拘置が行われているからといつて時効が中断しているものではない旨主張していることにかんがみ、この点についての拘束者らの見解を明らかにしておく。

拘置が行われている間は、時効が中断され続けているという見解については、拘束者らは、前述のように、確定裁判の執行として拘置が行われている以上、時効は進行しない旨主張するものであるから、もともと時効の中断事由の有無を論ずるまでもないとするものであり、その意味において、拘置が行われている間は時効が中断し続けているとする見解をとるものではない。

しかし、仮に、時効の中断事由となり得るかという観点から同法一一条二項の拘置を考察するならば、元来、時効の中断を認める趣旨は、国家の刑罰権発動の意思が具体的に表示された場合に、そのことによつてそれまでの時効の進行の効果を消滅させることにあるところ、拘置が確定裁判の執行として行われる以上、それは、右の刑罰権発動の意思の具体的な表示である身体の拘束の実施であることはもとよりであつて、同法三四条一項が単に確定裁判の執行の準備行為である収監状による身体の拘束にすら時効中断の効力を認めていることからしても、右のような拘置を行うことが時効の中断事由たり得ることは当然の理であり、このことは、また、死刑の確定裁判を受けた者が身体の拘束を受けていない場合に、任意の呼出しに応ずるなどして、収監状による身体の拘束を受けないまま、直ちにその者につき拘置が行われれば、それまで進行していた時効が中断することは何人も疑うところでないことからも明らかである。その意味で、拘置は、時効の中断との関係でいうならば、同法三四条一項に規定する中断事由である逮捕に該当し得るものであることは明らかである上、拘置は、収監状等による身体の拘束と異なり、もともと継続的な身体の拘束であるから、右のような意思の継続的な表示にほかならず、その性質において継続的な時効の中断事由というべきであるし、また、一面からいえばその実質において逮捕が継続的に行われている状態といい得るものであり、したがつて、拘置の行われている間は時効を中断するに足りる事由が存し、時効は常にその進行を妨げられている状態にあるとする見解も十分に成立し得るものであることを否定するものではなく、このような見解が類推解釈ないし拡張解釈に当たるものとは考えられない。

(g)請求者らの刑法三三条の解釈からの反論に対する主張

請求者らは、拘置が行われている間は時効は進行しないとの解釈をとつたときは、死刑については刑法三三条の規定により時効の進行が停止される場合がなくなるので不当である旨主張するが、死刑の確定裁判を受けた者につき、絞首及び拘置の執行の双方が停止されれば、その者については法令により当該確定裁判の執行が停止されるものであつて、このような場合には同条の規定が適用されることはいうまでもなく、右批判は失当である(なお、絞首及び拘置の執行の双方が停止される場合があることは、いわゆる免田事件、財田川事件及び松山事件の例に徴し、明らかである。)。

(ウ)以上からすれば、被拘束者に対しては、刑の時効が成立する余地はなく、同人の拘束は、確定裁判の執行としてなされており、法律上正当な手続に基づいていることは明らかであるから、本件各請求はいずれも理由のないことが明白であり、直ちに棄却されるべきである。

第三  当裁判所の判断

一事実関係

当事者双方の主張によると、本件における事実関係は、次のとおりである。

被拘束者は、昭和二三年八月二一日、いわゆる帝銀事件に関する強盗殺人事件で警視庁により逮捕され、勾留の後、同年九月三日釈放の上別件私文書偽造、同行使、詐欺、同未遂事件で東京地方裁判所に起訴され、引き続き同事件により勾留され、さらに同年一〇月一二日、右帝銀事件にかかる強盗殺人のほか強盗殺人未遂、強盗予備、殺人予備事件で同裁判所に起訴され、同月二一日、同事件により勾留された。その後、勾留中のまま右各被告事件について、同二五年七月二四日、同裁判所において死刑の裁判を、同二六年九月二九日、東京高等裁判所において死刑の裁判を各受け、同三〇年四月六日、最高裁判所において上告棄却の裁判を受けたものであり、右死刑を言い渡した東京高等裁判所の裁判は、右上告棄却の裁判に対する判決訂正申立ての棄却決定を経て同年五月七日確定し、同人は、以後同三七年一一月二四日まで東京拘置所に、同五一年五月九日までは宮城刑務所(拘置場)に拘置され、同月一〇日、同拘置場が仙台拘置支所となつたのに伴い、同支所に拘置され、昭和六〇年四月二九日から八王子医療刑務所に拘置され現在に至つているものである。

そして被拘束者に対しては、右死刑の裁判が確定して以来、死刑の執行がなされないまま現在に至つている。

二拘束者法務大臣、同検事総長、同宮城刑務所長らに対する請求について

右拘束者らは、規則三条に規定される施設の管理者とは、当該拘束が行われている施設について直接かつ具体的な管理権を有する者と解すべきであり、右三名は、同規則にいう管理者に該当しないから、拘束者とはいえない旨主張するので、まずこの点について判断する。

1  一に記載の事実関係によれば、被拘束者の拘束は、八王子医療刑務所においてされているのであつて、規則三条後段によると、この場合の拘束者は、施設である八王子医療刑務所の管理者であることとなる。

ところで、法務省設置法(昭和二二年法律第一九三号)四条一項によると、法務省に監獄法一条一項の規定による監獄として刑務所、少年刑務所及び拘置所を置くものとされ、右四条二項によると、法務大臣は、必要と認めるときは、刑務所、少年刑務所又は拘置所の支所を置くことができるとされ、同条三項により、刑務所、少年刑務所及び拘置所並びに支所の名称、位置及び内部組織は法務省令で定めることとされている。そして、刑務所、少年刑務所及び拘置所組織規程(昭和二四年法務府令第四号)二条には、刑務所に所長を置き、所長は、法務大臣の指揮監督を受けて所務を掌理し、所属の職員を指揮監督すると規定され、同規程七条二項及び三項は、支所に支所長を置き、支所長は所長の指揮監督を受けて支所の事務を掌理し、所属の職員を指揮監督する旨規定している。

以上の点からすると、当該施設の管理という事務については、法務大臣、刑務所長及び支所長がこれをなしているものであるが、刑務所長は、法務大臣の指揮監督を受けて施設に対し直接かつ具体的な管理運営をなすものであるのに対し、法務大臣は、指揮監督権限を通じてその事務を統轄するものであり、また支所長と所長との関係も右と同様であると認められる。

2ところで、法は、現に不当に奪われている人身の自由を迅速かつ容易に回復せしめることを目的としていること、及び規則三条後段の文言に照らすと、規則三条後段にいう施設の管理者とは、被拘束者の自由を直接かつ現実に支配しているものと解されるから、当該施設について直接かつ具体的な管理権を有するものをいうと解すべきである。

以上に述べたところからすると、法務大臣及び宮城刑務所長は、右の意味での管理者には当たらず、現に被拘束者を拘束している八王子医療刑務所の所長がこれに当たると解するのが相当である。

なお検事総長は、右所長に対し、一般的な指揮監督権をも有するものではない。

3請求者らは、刑務所長ないし支所長らは、職権あるものの命令等がなければ被拘束者を釈放することはできないから、これらの者に対し釈放の判決を言い渡しても実行不可能となり、したがつて、他の拘束者らも請求の相手方とする必要がある旨主張する。

しかしながら、人身保護手続においては、裁判所は、審問期日を開く場合は、拘束者に対して法一二条二項の規定による人身保護命令を発するのであつて(規則二条、二四条参照)、右命令が拘束者に送達されたときは、被拘束者はその送達の時から人身保護命令を発した裁判所によつて当該拘束の場所において監護されることとなるのである(規則二五条一項前段)。すなわち、右命令によつて被拘束者の身柄は裁判所の支配に移されるのであり、拘束者が引き続き被拘束者の監護を行う場合においても、それは裁判所の指揮のもとに行うのであつて(規則二五条一項後段)、裁判所において必要があると認めるときは、被拘束者を他の適当な場所に移すこともできるのである(規則二五条二項)。また、裁判所は、必要があると認めるときは、判決前に、決定をもつて、仮の処分として、被拘束者の釈放その他適当な処分をすることもできる(法一〇条)。そうして、裁判所は、審問の結果請求を理由ありとするときは、判決をもつて被拘束者を直ちに釈放するのであり(法一六条三項)、以上に述べたこの法律による救済を妨げる行為をした者に対しては、罰則による間接強制の手段が用意されている(法二六条)。また、被拘束者に対する身柄の拘束が他の法律による裁判に基づいてされている場合には、人身保護命令、法一〇条一項の仮の処分又は被拘束者を釈放する判決の言渡しがあつたときは、前記裁判はこれと抵触する範囲においてその効力を制限されるのであり、具体的には、人身保護命令の発付により、勾留状又は有罪判決の効力は停止されることとなるのである(法二四条、規則四五条一項)。

以上の手続の仕組みに徴して考えれば、被拘束者の身柄を支配している者、すなわち、施設における拘束の場合には、当該施設の先の意味での管理者を拘束者として手続を進行しても、裁判の執行、実現に支障はないと解されるのであるから、請求者らの主張は理由がない。

以上からすると、拘束者法務大臣、同検事総長、同宮城刑務所長に対する各請求については、同人らが法所定の拘束者に当たらないことは明らかであり、同人らに対する請求は、法一一条一項、規則二一条一項一号に該当する不適法でかつ、その欠缺を補正することができないものと認められるので、決定によりこれを棄却すべきものである。

この点に関し、拘束者らは、法務大臣、検事総長が法及び規則所定の拘束者に当たらないことが明白である以上、法五条、規則七条所定の拘束の事実、知れている拘束者及び知れている拘束の場所等を疎明することは不可能であり、かつ、その欠缺を補正する余地もないから、法七条により不適法として却下されるべき旨主張する。しかし、同条による請求却下の決定は、請求が形式的要件を欠いている場合及び形式的に必要な疎明方法を欠いている場合に関するものであつて、民事訴訟法(明治二三年法律第二九号)における訴状却下命令に当たるものと解すべきである。本件においては、法務大臣、検事総長が拘束者の地位にあることが法及び規則の解釈上否定されるというだけであつて、請求に際し明らかにすべき事項が一部欠けているとか、その証拠力はともかくとして、形式的な疎明方法自体が存在しないというような場合ではないから、法七条所定の場合には当たらず、前述したとおり、法一一条一項、規則二一条一項一号所定の請求が不適法であつてその欠缺を補正することができないものであるときに該当すると解すべきであつて、決定をもつて請求を棄却するのが相当である。

拘束者宮城刑務所長は、自己に対する請求を決定を以て却下すべき旨主張するけれども、右に述べたのと同様の理由により決定を以て棄却すべき場合に当たる。

三拘束者仙台拘置支所長に対する請求について

次に、拘束者仙台拘置支所長もまた同人が法及び規則所定の拘束者に当たらない旨主張するので、この点について次に判断する。

一に記載の事実関係によれば、被拘束者は、かつて仙台拘置支所に拘置されていたことはあるにしても、同人が現に拘束されている施設は八王子医療刑務所である。

ところで、人身保護手続は、現に、不当に奪われている人身の自由を、迅速かつ容易に回復せしめることを目的として制定された特別な救済方法であることからすると、法及び規則に所定の拘束者とは、現に他人を拘束している者に限られるべきであるから、仙台拘置支所長がこれに当たらないことは明らかであり、右拘束者に対する請求は不適法であるというほかない。請求者らは、被拘束者が将来再び仙台拘置支所に移送される可能性があるから、同施設の管理者である仙台拘置支所長を拘束者として請求する必要があると主張するけれども、裁判所によつて人身保護命令が発布されると、被拘束者の身柄は裁判所の支配内に入り、何人といえどもみだりに被拘束者を移動、蔵匿等法による救済を妨げる行為ができなくなること前述のとおりであるし、前記法の趣旨とするところからすると、単に将来拘束者の地位に立つ可能性のある者まで拘束者に含ませて解釈するのは相当でない。

したがつて、拘束者仙台拘置支所長に対する請求は、法一一条一項、規則二一条一項一号により、不適法でありその欠缺を補正することができないものとして決定をもつて棄却するほかない。

四拘束者八王子医療刑務所長(以下、本項において「拘束者」という。)に対する請求について

1一に記載の事実関係からすると、被拘束者に対し死刑を言い渡した裁判が昭和三〇年五月七日に確定した後、死刑の執行(絞首)がなされないまま、三〇年間が過ぎたこととなる。請求者らは、これにより被拘束者に対する死刑について時効が成立し、その執行が免除されるべき旨主張し、拘束者はこれを争うので、この点につき次に判断する。

2当裁判所は、死刑の確定裁判を受けた者が刑法一一条二項の規定により死刑の執行に至るまで拘置されている場合には、死刑の時効は進行せず、したがつて、そのような状態のまま三〇年が経過しても、死刑の時効は完成しないと解する。その理由は、以下に述べるとおりである。

(一) 刑法三二条の文理解釈

刑法三二条は、「時効ハ刑ノ言渡確定シタル後左ノ期間内其執行ヲ受ケサルニ因リ完成ス」と規定し、その一号に「死刑ハ三十年」と定めている。

右条項は、刑の時効の成立要件を規定したものであるが、右条項にいう「其執行」とは、請求者らが主張するようにその前の名詞である「刑」の執行の意味であると解釈することも文理上は可能といえよう。

しかし、「刑ノ言渡確定シタル後」とは、刑を言い渡した裁判が確定した後という意味であり、「刑ノ言渡」が刑を言い渡した裁判と同義で規定されていることは、拘束者の主張するとおりであつて、「刑ノ言渡」が一個の名詞句をなしていることからすると、「其執行」とはその名詞句を受けたもの、すなわち、「其執行」とは、刑を言い渡した裁判の執行の意味であり、裁判が執行されるのは、同条にも規定されているとおり、確定したことによるのであるから、結局、死刑を言い渡した確定裁判の執行を意味すると解することも文理上十分可能である。そして、この後者の解釈を本件に当てはめてみると、一に記載の事実関係によると、被拘束者は、昭和三〇年五月七日、死刑を言い渡した裁判が確定した後、現在まで刑法一一条二項により拘置されているものであるが、次に述べるように、右拘置は、死刑を言い渡した確定裁判の執行としてなされているのであるから、この拘置がなされている限り、先の時効の成立要件に当たらず時効はそもそも進行しないこととなる。そうして当裁判所は、後述するような刑の時効制度の趣旨、刑の時効の中断に関する刑法三四条との統一的解釈の必要性その他の点から考えるとこのように解釈せざるを得ないと考える。

(二) 刑法一一条二項の拘置の性質

刑法は、犯罪の要件を定め、これに結びつけられる法的効果として刑罰の内容を定めるものであるが、生命刑たる死刑については、同法一一条一項で、死刑は監獄内に於て絞首するという方法により執行するものと規定し、同条二項において、死刑の言渡しを受けた者は絞首による執行を受けるまで監獄内に拘置すべきことを規定している。

右によると、生命刑たる「死刑」という刑罰の執行行為としてはあくまでも監獄内での絞首を意味するものではあるが、それに至るまでの監獄内での拘置は、固有の意味での刑罰ではないものの、もちろん未決拘禁ではない死刑の執行行為(絞首)に必然的に付随する前置手続として、刑罰の内容を定める刑法自体によつて定められた一種独特の拘禁であつて、死刑を言い渡した確定裁判自体の効力として執行されるもので、右に述べた意味で死刑執行手続の一環をなすものである。

拘置手続は、以上のような性質のものであり、死刑を言い渡した裁判が確定したことにより、その裁判の執行としてなされるものである。

(三) 刑の時効の制度の趣旨

刑の時効の制度が設けられた趣旨については、犯人が長期間にわたる逃避のためすでに十分に刑の執行に代わる苦痛を受けているからとする説もあるが、これは必ずしもすべての場合に妥当するものではなく、結局、犯罪に対する社会的な規範感情が時間の経過とともに次第に緩和され、やがて必ずしも現実的な処罰を要求されないまでになることを主眼として考えるべきである。こうした考えは、一定期間の経過とともに形成された社会的事実関係、長期間継続した事実状態を一つの秩序とみて、この秩序を尊重し、覆えさないことがかえつて社会的安定に資するとする、すべての時効制度に共通する理念にあい通じるものであつて、刑の時効の制度もまさに右の理念に基づくものである。例えば、犯人の逃走等によつて長期間刑の執行が行われない状態が継続すると、犯罪の種類、態様によつて差異はあるにしても、社会一般の感情として、犯罪、犯人の印象、記憶も不鮮明となり、他方犯人は、曲りなりにも一般の社会人としての日常生活を長期間にわたつて送つていることから、本人について一定の一般的な社会生活関係が形成されて行くのであつて、そうなると、犯人が現実に処罰されるべきであるとする規範感情も薄らいで行くのが通常であり、右のように形成されてきた一般的な社会生活関係を覆えし、破壊してまで犯人を処罰することは、必ずしも必要とはいえないのみならず、政策的にいつても得策とはいえないことが多い。このようなことが、刑の時効によつてその執行を免れさせる制度の存在理由にほかならない。

これを死刑の時効についてみると、死刑の確定裁判を受けた者が、死刑の執行に至るまで継続して拘置されている場合には、前述した刑の時効を進行させる基礎となる事実関係は存在しない。

死刑の執行に至るまでの拘置の性質は、前記のとおりであつて、犯人は、死刑を言い渡した確定裁判の執行として、死刑の執行手続の一環として拘禁されているのであつて、まさに死刑の執行を受けるべき者として一貫して扱われ、一般社会から隔離されているものである。そうして社会一般もそのことを認識しているのであつて、規範感情の緩和という点では、先述した一般的社会生活を送つてきた者と比し、質的に差異があるというばかりか、懲役刑、禁錮刑等の自由刑が現に執行されている場合と選ぶところがない。また時の経過とともに形成された一定の社会的関係の尊重という点からしても、一般人と同様の社会生活を送つてきた者と、死刑執行手続の一環として拘禁され、死刑執行を受けるべき者として隔離されてきた者との間では本質的に異なる面があるといわざるを得ない。そして、もし、拘置されてきた者を刑の時効によつて一般社会に釈放するということになれば、それまで形成維持されてきた死刑の執行を受けるべき者としての生活関係をそのままの姿で尊重するということではなしに、それ以上の効果をもたらすことになるのであつて、このことは先の時効の趣旨を明らかに超えるものであるのに対し、拘置されてきた者をそのまま死刑の執行を受けるべき者として扱うことは、何ら秩序を乱すものではない。

以上からすると、死刑の執行を前提として身柄を拘置されている者について死刑の時効の進行、成立を認めることは、刑の時効の趣旨にも合致せず、相当とはいえない。

(四) 刑の時効の中断との関係

刑法三四条は、時効の中断事由を規定しているが、時効の中断とは、中断事由の発生によつてすでに進行していた時効期間の効果を喪失させ、無意味にするものである。そうして、同条一項は、死刑及び自由刑については刑の執行について犯人を逮捕することを、同条二項は、罰金、科料及び没収の刑については執行行為をしたことをそれぞれ中断事由として定めている。

右の各場合になぜ時効が中断することとされたのかその趣旨を考えると、従前の時効を進行させる基礎となつた事実と全くあいいれない事実状態が発生したことを根拠とするものと考えられる。

ところで、死刑及び自由刑の中断事由である「逮捕」とは、刑を執行するために犯人の身柄を拘束することをいい、収監状(刑訴法四八五条ないし四八九条)の執行によつて身柄を拘束すること、呼出に応じて任意に出頭した者を検察官の執行指揮により収監すること、在監者が逃走したときに監獄官吏が監獄法二三条によりこれを逮捕すること等がこれに当たるとされている。もつとも逃走中の受刑者を逃走罪や他の犯罪の被疑者として逮捕した場合は、刑の執行のために逮捕したのではないからここにいう逮捕には当たらないとされるが、他方「逮捕」が前記の場合に限られるわけではなく、犯罪で逮捕された受刑者がもとの監獄に復監したとき、又は、その者に対して残余の刑期についての執行が委嘱されたときにも本条にいう逮捕があつたものと解されている。要するに、このような事由が生じたときには、時効進行の基礎となつていた事実関係と全くあい反する事実状態が生じたため、すでに経過していた時効期間の効果を失わせることとしたものである。すなわち、自由刑についてみれば、犯人が一定期間、自由刑の執行を受けずに一般的な社会生活関係を送り、その者の生活関係をめぐつて一定の秩序が形成されつつある事実状態に対して、その者に対し、自由刑を執行するために、刑の執行内容と同様の身柄の拘束をなした場合、又は、再び自由刑の執行自体に着手した場合には、もはや、犯人をめぐる生活関係は、刑の執行を受けると同様の又は刑の執行としての生活関係に変化したものであり、このように全くあい反する事態の発生により、先の時効の進行を無意味にしたものである。

ところで、刑法三四条一項によれば、死刑についてもその執行のために犯人を逮捕することが時効の中断事由となることが明らかなのであるが、このことは、前述した時効の中断の趣旨理由からすれば、刑法は、死刑を執行するために犯人の身柄を拘束することを、死刑の時効の進行の基礎となつた事実とあい反する事実に当たると評価していることが明らかである。すなわち、前述したように、死刑執行に至るまでの拘置は、死刑の執行に必然的に付随する前置手続であり、死刑を言い渡した確定裁判の執行として、死刑執行手続の一環をなすものであることから、時効制度においては、刑法は、拘置を死刑の執行と同視して、この一定期間継続される身柄の拘置のための前置手続として身柄を拘束すること、又は再び右拘置の執行に着手することを、時効の進行の基礎となつた一定期間の社会生活関係の継続と全くあい反する、死刑の執行がなされていると同様の又は死刑の執行の着手と同視できる事実状態の発生とみて、これを時効の中断事由にしたものと考えざるを得ない。もしそうでないと解するならば、絞首による死刑の執行自体に着手しない限り、死刑の時効の中断を認めなかつたはずである。

このように、法は、死刑の時効の制度においては、拘置を死刑の執行と同視して、その拘置に前置する身柄の拘束、又は、拘置自体の着手を時効の進行とはあい反する事実状態として規定しているのであり、死刑執行に至るまで一定期間継続する拘置については、それ以上の理由で、時効の進行とはあい反する、むしろそもそも時効の進行すら問題とならない死刑の執行と同視できる事実状態と評価しているものというべきである。

本件においては、時効の中断それ自体が問題となつているのではなく、そもそも、当初から時効が進行し得たのかが争点となつているのではあるが、刑法三四条一項の死刑の時効の中断に関する右の解釈を前提として同法三二条を合理的に解釈すれば、死刑の執行を前提として身柄を拘置されている場合には、そもそも死刑の時効が進行し得る状態にはないと解さざるを得ず、したがつて、同条における「其執行」には、死刑の確定裁判の執行としてなされる身柄の拘置が含まれると解するほかない。

(五) その他の請求者らの主張に対する判断

(1) 逃亡者との均衡

請求者らは、刑の確定後逃亡した者に時効の成立が認められることとの比較において、拘置されていた者にも時効の成立を認めないと不公平である旨主張する。たしかに、死刑の裁判が確定した後に逃走して自由を享受して来た者について時効の完成が認められるのに、確定後身柄を拘束されて行動の自由を束縛され、死の恐怖のもとに三〇年間を過ごして来た者について時効の成立が認められないことについては、不公平との印象を与える面があることは否定できない。

しかしながらこのことは、刑の時効の制度から不可避的に生ずる結果である。すなわち、時効制度というものは、一般に、法の期待する真にあるべき事実状態に反する事実状態が一定期間継続したときには、敢えてそれを一つの秩序として法も尊重するという考え方に基づくものであつて、そこで認知される状態は、本来は真にあるべき状態に反するものであり、この意味において、時効制度には、常にある程度の反倫理的かつ不公平な側面があることを否定できない。例えば、懲役刑、禁錮刑等の自由刑についての時効の場合において、刑を言い渡した裁判の確定後巧みに逃走して刑の執行を免れた者は、その間自由を享受しながら時効期間の経過によつて刑の執行の免除の利益を受けられるのに対して、裁判確定後その執行を受けている者は、日夜牢獄につながれて辛酸をなめながら、遂に時効の利益を受けないままに終るのであつて、実質的に見れば、その間の不公平は否定すべくもない。しかし、それにもかかわらず、法が刑の時効を認めるのは、前述したように、長期間刑の執行を受けない状態が継続したことによつて生じた社会規範感情の緩和や、社会的関係の安定への配慮に基づくものであつて、刑の時効を認めることの反倫理的な面、時効の利益を享受できない者との間の相対的な不公平さは、そもそも、刑の時効の制度に内在する性質なのである。したがつて、法が死刑執行のため身柄を拘置されている者に死刑の時効の進行を認めない趣旨であると解すべきことが前述のとおりである以上、死刑の裁判確定後に逃走した者との間に生ずる不均衡は、刑の時効の制度が本来已むを得ないものとして予定しているところであつて、もし、敢えてこれを否定しようとするならば、制度自体の否定につながることになろう(歴史的には、刑の時効制度は古くから普遍的なものとして存在したわけではなく、これを認めない法制度もあつたし、殺人その他一定の重罪に適用を認めないものも見られた。)。したがつて、逃亡者との間の不均衡をいう請求者らの主張は、現行の刑の時効の制度を前提とする限り、本件についての結論を左右する根拠とはなり得ないものである。

ちなみに、仮に請求者らの主張するように、死刑の執行を前提として拘置をされていた者についても、三〇年の経過によつて死刑の時効が成立し、釈放されるべきであると解すると、責任がより軽い筈の無期懲役、無期禁錮の確定裁判を受け、その執行を受けている者が三〇年たつても釈放されないこととの不均衡を生ずることともなる。

(2) 残虐刑の禁止等との関係

請求者らは、仮に本件において被拘束者につき死刑の時効が成立しないと解するとすれば、被拘束者を三〇年間にわたり死の恐怖の下に拘置した上で死刑を執行することとなる点において残虐な刑罰を禁止した憲法三六条に違反し、また、死刑に加えて三〇年の禁錮刑を科する結果となる点において罪刑法定主義に反することになり不当である旨主張する。しかしながら、当裁判所は、この主張にもまた賛意を表するわけにはいかない。

死刑の執行は、法務大臣の命令によつて行うものであるが(刑訴法四七五条一項)、右命令は、現行刑訴法においては、判決確定の日から六箇月以内にこれをしなければならないこととされている(同条二項本文)。これは、刑を言い渡した裁判が確定した以上、できるだけ迅速に執行することが、裁判の権威にとつても必要であり、死刑の場合にも同じであるとの考えに基づくものと思われ、それは、それなりに理由のあることである。しかし、自由刑その他の執行の場合とは異なつて、生命刑である死刑の場合には、一たん執行がされれば原状回復は不可能なのであつて、いわば取り返しのつかない結果が生ずるのであるから、他の種類の刑の場合よりも、その執行については、より一層慎重な配慮が要求されることも否定できない。旧刑訴法が死刑の執行命令を発すべき期間について特段の規定を置かずに、これを司法大臣の裁量に委ねていたことや、現行刑訴法が、上訴権回復、再審の請求、非常上告、恩赦の出願、申出がされてその手続が終了するまでの期間及び共同被告人であつた者に対する判決が確定するまでの期間は、前記六箇月の期間に算入しないこととしているのも、そのような配慮のあらわれということができる。

また、法令により刑の執行が停止される場合としては、死刑の言渡しを受けた者が心神喪失の状態にあるとき(刑訴法四七九条一項)、死刑の言渡しを受けた女子が懐胎しているとき(同条二項)があり、上訴権回復の請求があつたとき(同法三六五条)、再審の請求があつたとき(同法四四二条)及び再審開始の決定をしたとき(同法四四八条二項)にも、当然には執行は停止されないが、裁量により停止することが認められている。

死刑の執行命令を発するかどうか、また、何時発するかを決するに当たつては、これらに関する事項を含め、あらゆる事情を総合して慎重に決すべきものであるから、その結果、いま直ちに死刑執行命令を発するのが相当でないとの判断の下に、長期にわたつて身柄の拘置が継続したからといつて、直ちにこれを不当とすることはできない。もちろん、死刑の確定裁判を受けた者が身柄を拘置されたまま三〇年間が経過するような事態は、立法当時においても一般に予想されたところではなかつたと思われるが、だからといつて、死刑を言い渡した裁判の確定後迅速に執行命令を発すべきであつたときめつけるわけにはいかないのである。また、三〇年間の身柄拘置を経た上で死刑執行命令を発することが妥当かどうかの問題はあるとしても、それは、法務大臣が以上に述べた諸般の事情を総合的に考察した上でその権限と職責において決することである。

いずれにしても、死刑の確定裁判を受けた者がその執行を前提として三〇年を超える期間身柄を拘置されたからといつて、それだけで死刑の時効の完成を認めなければ憲法三六条所定の残虐刑の禁止に触れるということにはならない。

以上の理は、死刑の時効一般について妥当するものであつて、死刑の確定裁判を受けた者についての個別の具体的事情によつて左右されるものではない。しかし、本件における被拘束者の場合についても、当事者双方の主張によると、死刑を言い渡した裁判が確定した後、現在に至るまで一七回にわたる再審請求、五回にわたる恩赦の出願が繰り返され、拘束者らの主張によれば、右手続の行われている期間を除く死刑判決確定後の期間は、八二日間に過ぎないというのであるし、これらの事情も死刑執行命令を発するかどうかを決する基礎となる事情の一つであることは間違いないから、法務大臣が現在に至るまで被拘束者に対する死刑執行命令を発しなかつたからといつて、不当な措置であると即断はできない。

付言するのに、もし請求者らの主張するように、死刑の確定裁判を受けた者の身柄を長期にわたつて拘束することが残虐であるとするならば、裁判確定後迅速に執行する方がより望ましいということになろうが、人道的見地や死刑の言渡しを受けた者の立場等からいつて、果たして常にそう言えるかどうか疑問である。

かえつて、請求者らの主張するように、死刑の確定裁判を受けた者が死刑の執行を前提として身柄を拘置されている場合にも死刑の時効が進行すると解するならば、法務大臣としては、特段の事由のない限り時効完成前に死刑を執行すべきものであろうから、死刑執行命令を発するか否かを決するにつき、諸般の事情を総合してする裁量権の行使に関し、場合によつては相当の制約を受けることになり、全体としては、死刑の執行を促進する結果を生ずる可能性もあると考えられないではない。さらに、もしこのようになれば、死刑の執行をすべきかどうかを判断するに当たつては、再審の請求がされているかどうかもしんしやくする事情の一つであることは前述のとおりであるところ、無実を主張する者が再審開始のための要件をみたし得る可能性があるにもかかわらず、現にみたすには至つていない場合にも死刑を執行せざるを得ない場合が出て来る可能性もある。再審の請求がされている場合は執行の停止をすればよいのであるから、そのような心配をする必要はないとする考えもあるかも知れないけれども、法務大臣において直ちに死刑執行をすることに問題があると考えることがあり得るすべての場合において再審の請求がされているとは限らないし、仮に再審の請求がされているとしても、常に執行を停止する取扱いとするときは、受刑者がこれを乱用して死刑の執行を免れようとすることになる恐れもあるから、執行停止の方法があるからといつて前述した不都合が解消するともいえない。

さらに、死刑の執行がそれに至るまでの身柄の拘置を必然的な付随的前置手続として予定していること、及び死刑執行命令を発するかどうか、発するとして何時発するかは、諸般の事情を総合的に考察した上で決せられることであつて、その結果身柄の拘置が長期間にわたつたとしても、それだけで直ちに不当とはいえないこと前述のとおりであることからすれば、死刑執行を前提とした身柄の拘置が三〇年を超えて継続したからといつて、裁判で言い渡した刑以外の刑を執行したことになるものではなく、また、罪刑法定主義に反するものでもないことは明らかである。

(3) 刑の時効の停止との関係

請求者らは、死刑の確定裁判を受けた者が身柄を拘置されている場合にはそもそも死刑の時効が進行しないとする見解をとると、死刑の場合には、刑法三三条の時効の停止の規定が全く無意味なものになつてしまう旨主張する。

しかし、例えば、再審請求がなされた時の検察官の裁量による刑の執行停止の場合(刑訴法四四二条)、再審開始決定をしたときの裁判所の裁量による刑の執行停止の場合(同法四四八条二項)は、それぞれの規定中の「刑の執行」には、絞首による死刑それ自体の執行のほか、死刑執行のための身柄の拘置も含まれるものとした上で、この拘置の執行をも停止しうるとする解釈も十分採り得るのであつて、この解釈にたつて拘置の執行も停止された場合に死刑の時効の進行を停止する趣旨の規定として、刑法三三条は意味を持ちうるから、同条項が死刑の場合に全く無意味になるとはいえない。

なお、この点に関し、請求者らは、刑訴法四七九条一項により、心神喪失の状態にある死刑囚に対し、死刑の執行が停止された場合でも、身柄はなお拘置されることになるところ、拘置されている場合にはそもそも時効は進行しないとの見解を採ると、右の場合も、拘置されている以上そもそも時効が進行しないのであるから、刑法三三条の時効の停止の適用がないこととなるが、右見解は、右の場合を同条の適用例として挙げている通説に反するものである旨主張しているので、右の点に関し付言する。

確かに、法令により刑の執行が停止される場合のうち、請求者が挙げる死刑の言渡しを受けた者が心神喪失の状態にあるとき(刑訴法四七九条一項)、さらには、その他にも死刑の言渡しを受けた女子が懐胎しているとき(同条二項)には、死刑の執行の停止中の者を拘置するのであり(刑法一一条二項)、この点で自由刑の執行の停止の場合とは異なる(刑訴法四八一条参照)ものとされている。そして、当裁判所は、同法四七九条一項、二項に各規定されている「執行を停止する」の意味については、死刑の執行それ自体の停止を指し、拘置の執行の停止はこれに含まれず、右の各項の適用によつて拘置の執行の停止をもすることはできないものと解するが、その理由は次のとおりである。

死刑確定者が心神喪失の状態にあるとき、また、女子についてその者が懐胎しているときに、死刑の執行を必要的に停止することとした趣旨は、前者の心神喪失者については、死刑の執行に際して自己の生命が裁判に基づいて絶たれることへの認識力がない者に対して死刑を執行することは、刑罰の執行として無意味であるというばかりでなく正義に反するからであり、後者の懐胎している女子については、死刑は犯人の一身にとどまるべきもので、累を生まれてくる子に及ぼしてはならないからである。このように、右の各項は、あくまでも死刑という刑罰の執行をなすこと自体による弊害を防止するための規定であるから、執行の停止の対象としては、死刑そのものをとらえれば十分であり、拘置までこれに含ませることは、その趣旨からは無用であり、かつ、右の各項が必要的執行停止の規定であることからすると、もし、右に拘置の執行の停止も含まれると解すると、拘置の執行のみを裁量によつて停止しない扱いはできないため、不当な結果となるから、拘置の執行は右各項の停止の対象に含まれないと解釈せざるを得ないわけである。

したがつて、当裁判所は、右の各項による死刑の執行停止がなされた場合には、常に拘置はなされるのであり、前述のとおり、拘置がなされている以上、時効はそもそも進行しないのであつて、右の各項により死刑の執行が停止される場合は刑法三三条の適用例には含まれないものと解する。

また、刑の執行停止の各規定が死刑の執行に至るまでの拘置の執行停止をも含むものと解すべきか否かは、次にも述べるとおり、各規定の立法趣旨、肯定して解釈した場合の利害の較量、その他の事情を総合して解釈すべきことであるから、死刑の必要的執行停止の規定については、先のとおり解釈すべきであるとしても、このことが、他の規定の解釈の妨げになるものでないことはもちろんである。

(4) 法律解釈についての諸原則との関係

請求者らは、刑法三二条における「其執行」を「刑を言い渡した確定裁判の執行」と解する見解は、「統一的解釈の原則」に反すると主張するが、同法一一条二項では「其執行」は絞首による死刑の執行それ自体のみを指すことは明らかであるが、だからといつて、他の条項においても常に同義に解さなければならないものではない。

法条の解釈については、その文理のみからだけではなく、その他に、当該規定の趣旨、他の法条あるいはその解釈との整合性、当該解釈をとることによつて生じる利害の較量等諸般の事情を考慮してその法条の予定している意味を合理的に解釈し導き出すべきものであり、前述したような観点から、同法三二条の「其執行」の意義を前記のように解釈することは、合理的、合目的的解釈でありこそすれ、なんら法解釈の原則に反するものではないし、また、刑法で禁止される類推解釈に当たるものではなく、また、罪刑法定主義や、刑事法の厳格解釈の原則に反するものでもないことは当然である。

なお、請求者らは、刑法三二条における「其執行」を「死刑を言い渡した確定裁判の執行」と解すると、併せて言い渡された罰金、没収、追徴等の刑の執行や訴訟費用に関する執行によつて死刑の時効が完成しない不都合が生ずるというが、これらは、いずれも死刑それ自体とは別個の裁判の執行であるから、そのような解釈は成立しない。

(5) その他

以上に述べたとおり、死刑の確定裁判を受けた者がその執行を前提として、身柄を拘置されている場合においては、そもそも死刑の時効は進行しないと解するほかない。

ところで、本件における被拘束者が、九〇歳を超える高令であること、被拘束者がいわゆる帝銀事件その他の事件についての確定裁判に対し、無実を主張して前述のとおり再審の請求を繰り返していることは明らかなことであり、請求者らは、右事件の被害者のうちでさえもその一人が被拘束者の無実を訴え、現在係属中の再審請求事件の弁護側証人として出廷することを望んでいるなど被害感情が和らいでおり、また、被拘束者の釈放を求める世論が年々高まつていること等を主張し、死刑の時効が完成したと解するのが妥当であると主張している。

しかしながら、死刑の時効に関する一般的解釈は、いうまでもなく、現に死刑の確定裁判を受けて身柄を拘置されているすべての者、さらには将来同様の地位に立つべきすべての者に通じて均しく適用されるのであるから、前述した被拘束者に関する個別的、具体的事情は、死刑執行や恩赦の問題に関し、当該事項につき権限を有する者により、他の諸般の事情とともにしんしやくされることはあり得るとしても、これを以て死刑の時効に関する前記の解釈を左右する根拠とすることは許されない。

また、被拘束者本人は、本件における当裁判所による書面による審尋及び当裁判所の受命裁判官による審尋に際して、被拘束者が前記事件について無実であることを繰り返して述べている。

しかしながら、本件における争点は、死刑に関する時効の問題についての法律解釈の点だけであつて、被拘束者が前記事件の犯人に間違いないかどうかという点は、本件人身保護手続においてではなく、現に東京高等裁判所に係属してしる再審請求手続において判断されるべきものであり、また、現に本件においてはこれに関する具体的な主張はされていない。したがつて、本件人身保護手続においては、被拘束者に対して前記事件についての死刑の確定裁判がされていることのみを前提として死刑の時効の成否につき判断すべきものであつて、被拘束者が前記無実の主張をしていることをしんしやくする余地はない。

3以上に述べたところによれば、被拘束者については、死刑の時効が成立していないことは明らかであり、被拘束者は、死刑を言い渡した確定裁判の執行として現に八王子医療刑務所において拘置されているものであるから、被拘束者は、法律上正当な手続に基づいて拘束されていることが明らかであり、請求者らの拘束者に対する請求が理由のないことは明白である。

五結論

以上の次第であるので、請求者らの拘束者法務大臣、同検事総長、同宮城刑務所長、同仙台拘置支所長に対する本件各請求は、法一一条一項、規則二一条一項一号所定の請求が不適法であつてその欠缺を補正することができないときに当たり、また、拘束者八王子医療刑務所長に対する本件請求は、法一一条一項、規則二一条一項六号所定の請求の理由のないことが明白であるときに当たるから、いずれも、決定をもつてこれを棄却すべきものである。

よつて本件各請求を棄却することとし、手続費用につき法一七条を適用して、主文のとおり決定する。

(藤田耕三 山田俊雄 橋本英史)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例